あがた森魚の或日の日記やコラムをお伝えしてまいります。
(あがた森魚自身によるあがた森魚月刊映画のCM )
『もっちょむぱあぷるへいず2月號』が完成しました。
いよいよ今日はその発表会。space-neoでの『月刊『もっちょむ』参月紫月集壕』。1月號と2月號を同時上映してトークとライヴ。できたての2月號DVDRをブックレット付でプレゼント。
今回の催し物は、映像作品としての月刊映画そのものが、実験的要素(ジャンルとしての実験映画という以前に)をいろいろ含んでいる、さまざまな意味でジャンルを超越した作品をめざしているからだ。そもそもこの作品が、私、あがた森魚と、岡本和樹の共同演出作品ということが、特殊といえば特殊なのだが。であるから、映画に共同演出というのが可能なのか、という疑問からも始まるだろう。
これは限りなく、あがた森魚の個人映画としての要素から出発している。なぜなら、あがた森魚の日記とこの映像は、リアルタイムに同時進行に記録されていき、それが編集されただけ、というものでしかない。
これは素朴にあがた森魚一個人の2007年2月の記録映画であるし、ドキュメンタリー作品ともいえる。しかし、その上で何より際だって特徴的なのは、あがた森魚が岡本和樹をはじめとした表現者(アーティスト)達とセッションして、作りあげた映像による「音楽」や「歌」ともいえる作品になっているとこだ。つまり、あがたは岡本、及び、そのセッションメンバーにより、みずからの生き姿をシンガーソングライティングし、それを岡本和樹をはじめとしたセッションメンバー達とジャムセッションしてみせたもの、としての映像作品にもなっているというとこだ。
それは、生きている刹那性であり、リアリティであり、過去と未来のふれ幅の、たった今現在の息吹き(呼吸)であり、そこに記録され映しだされた映像は、たしかに刹那に記録され、刹那に消え去った映像光景なのだが、それに対し、あがた森魚と岡本和樹は、映像的、音楽的にトーキング・ブルーズを投げかけ、パンク的、アドリブ的ジャムセッションが投げかけ、2007年2月という一ヶ月のあがたの行動時間軸に対し、しなやかかつダイナミックなジャムセッションを試みてみたということ。あがた自身のレトリックでいえば「映画音楽を使わないでできあがった音楽映画」。ラース・フォン・トリアーの「ドグマ95」の映画文法の約束にある「現実音の中に聞えてきた音楽以外は一切映画音楽を使わない」という手法にもかなった音楽に対する認識もそこには試みたつもりだ。
2007年2月というその時間枠の中にあがた及び、ミュージシャンが、日常あるいはリハーサルスタジオ、あるいはライヴ会場、等にて奏でた音、ないしは、街灯やメディアから束の間聞えてきた音以外の音、音楽は用意されていないし、使われていない。鼻歌と、口笛と、家でつま弾いたギターしか聞こえてこない。日記や、ナレーシヨンまでもが。
また、映像そのものは、日々を記録したドキュメンタリー記録であるが、ライヴ会場の日付け、場所以外、極力テロップでの解説を排除、登場人物等の過剰な説明を行わない。おのずと日常そのもの、また、ライヴツアーとして、訪れる四国各地や信州各地といった、見るものにとっては未知の場所や状況への細かい解説も省くことによって、むしろ視聴者へのイメージにゆだねるとことした。
日記や、ナレーシヨンまでもがトーキングブルーズだぜ!!
世界初?!新発明!!
映像は刹那刹那に見、聞き、感じとったものを切り取っていったものであるから、それは、基本的に時系列(時間順)に即して編集されたものであるが、刹那刹那(瞬時瞬時)の出来事の羅列は、見る者に現実を超越したイマジネーションをも、投げかける「スーパーとシュールを超越するリアリズム映画」にもなったはずだ。
それらの映像的音楽的創意の結果として、記録性、実験性、等々を超越して、「物語を物語る映画」「あがた森魚を物語る映画」そして「たった今現在と向き合おうとする映画」を目指したし(今後も目指し続けるし)、そういう作品になったのでは、と、自負する次第。乞うご期待!! 本日上映です。
(どうあれ、 立派な大人に成人したばかりでこれからの活躍が期待される新人、岡本和樹と、まもなく還暦を迎えようとしていて十分齢を重ね、経験値も経ただろうあがた森魚という「立派な大人」同士が、雁首をそろえて、何したの(笑)?!
しかしその「立派な大人」同士がジャムセッションした成果がこれである。良識ある若者と、常識をわきまえてるはずの熟年が二人揃って何を作ったのか。そして、これから何を作り続けようとしているのか。そこに何が映し出されていったのか?!まぁとくとご覧あれ。 )